第27章決別「アノン、こいつがこれから戦地へ赴くお前の護衛を務めてくれるリューゲだ。仲良くしろよ」 「よろしくお願いします、アノン様」 優しげな眼差しをした男だった。嫌悪感はない。兄が信頼するという人物に、文句などない。数年の時を、幾多の戦いを彼と過ごした。守られた回数は指折りでは数えきれまい。 なのに。 「さようなら、アノン様」 裏切りは唐突だった。自分の腹部から突き出た、見覚えのある剣。いつも私を守ってくれた剣。ずっと私を守ってくれるはずだった剣。兄が信頼した、剣。 何も考えられなかった。 最後に見た彼の顔。 笑っていた。 次に気が付いた時は見知らぬ女の前だった。名前だけは知っていた、イシュタルという女だった。 途切れ途切れの記憶を辿れば、倒れた私が抱えられ、どこかへ連れて行かれる浮遊感と『お前に新たな命を授けよう』という無慈悲な声があった。 彼女が私を連れていったのは、アリオーシュという男の前だった。そして知らされる真実が、もう私は昔の私ではないということ。アリオーシュが望めば彼に憑依出来、彼の力を引き出すことが出来るようになっていた。 いつの間にか私はアリオーシュの矛と呼ばれ、アノンと呼んでくれるのはアリオーシュだけになっていた。でも、それで良かった。私の名前は特別なんだ。彼しか呼ばなくていい。そう思えたから。アリオーシュに対する好意は日に日に大きくなっていった。兄のことも、リューゲのことも思い出せなくとも構わなくなるほどに。 だがある日出会ってしまった。私をアノンと呼ぶ女に。彼女はアリオーシュと楽しげに話していた。彼女に見せる彼の表情は、私の見たことのないものばかりだった。彼に悲しんでほしくはないから、私は彼女と仲良くした。ナターシャという名前らしかった。彼女への嫉妬の思いも、募っていった。 そしてある日私は長く眠らされることになった。アリオーシュの願いならばと私は聞き入れた。来るべく災厄のため、私は眠るのだった。その時久々にイシュタルの姿を見たのを覚えている。 そしてどれくらい長い間眠っていたのだろうか分からなくなるほどに時が経ち、数多の夢を見、私は再び目覚めた。きょとんとした表情の彼を私は鮮明に覚えている。アリオーシュ程の頼もしさを最初は感じなかった。どこか似ていると思ったものの、彼とアリオーシュでは違いすぎた。だが、彼に惹かれるのにもさほど時間はかからなかった。やはり同じ血が流れていると実感させられる、ゼロとアリオーシュの共通点の数々。再びナターシャの末裔が現れた時は、流石に苦笑せざるを得なかった。今の彼女は受け入れることができる。いや、きっとアリオーシュに寄り添ったナターシャも、もっと私が仲良くしようと望めば受け入れられたのだろう。アリオーシュに対するナターシャの想いも、ゼロに対するユフィの想いも、共感できるものばかりだ。 私に課せられた役割であるアシモフの用意した存在、ムーンを打倒したとき、私の役割は終わった。予定されていた通り消滅の運命を辿った、はずだった。 再びイシュタルが現れた。今度は男だったが。 私を捕まえた理由が、私を再びゼロに会わせようと思いからだったなら、私は彼にどれほど感謝できようか。 今私は光に包まれる。私は、幸せ者だ。 「よし、帰るぞ」 「あぁ」 ゼロが連れたって歩く少女は、見紛うことなくアノンに他ならない。 だが、どことなく今までとは雰囲気が違うような気もする。 「アリオーシュのお姫様は終わった。さ、次はうちのお姫様の番だぞ?」 彼らを見送り、シーナは再びフィエルの待つ部屋へ戻った。 「おかえり……で?」 そわそわした様子でミュアンが彼らを迎えた。アノンの姿を見つけた時は一瞬嬉しそうな顔をしたが、実際の所どうなっているかは外見だけでは判断出来ない。存在消滅という事態が回避できたことぐらいしか彼女には分からなかったのだろう。 アノンが下を向く。ゼロは何も言わなかった。 「……そっか。でも、きっとまだ何か方法見つかるよ! うん、神様だって倒せたんだもん、運命だって変えられる!」 「何を言っているのだ?」 気丈に振る舞うミュアンに、アノンが怪訝そうな視線を投げかける。 「へ?」 ここでゼロが堪え切れずに噴き出した。 「神をも倒したイシュタルとアリオーシュの力があって、出来ぬ事があるわけあるまい」 アノンの不遜な表情に、ミュアンがきょとんとした表情を見せる。 ――騙された? そう思ったが、今だけは許してもいい気がした。これはめでたいことだ。こんな冗談も許せる気持だった。 「もう……! おめでと」 「うむ、ありがとう」 ミュアンがアノンの頭をなでてやる。彼女から今まで感じていた、ほんの些細な違和感が消えている。これが普通になったという何よりの確証か。 「今までお前にはホント世話になったな、ありがとうミュアン」 「あ、うん……どういたしまして!」 ゼロの言葉に一瞬悲しそうな顔をしてしまいそうになり、ミュアンは慌てて笑顔に努めた。これは別れじゃない、始まりだ。ゼロは再び元々居た場所に戻るだけなのだ。だから、笑顔で見送ろう、そう決めた。 荷支度は昨日のうちに終えていた。レイが戻ってくることも考慮して、だいぶそのままだが。 「またこっちに遊びに来てね?」 「あぁ、その時は公務からしんないけど、時間作るよ。お前も法が変わったら一度来るといいさ」 「ん、楽しみにしてる。ユフィさんにも、会ってみたいし」 一瞬ゼロが困ったような顔をした気がした。でも、彼の笑顔は崩れない。 「じゃあそろそろ行くよ」 「ミュアン・リリルナ、貴女には感謝している」 「うん、ちょっと用事あってここまでしか見送れなくてごめんね」 ――私には、これしか言える言葉はない……。 「またな」 「うん」 ――おかえりって、言ってあげられる存在になりたかったなぁ。 「行ってらっしゃい!」 これが彼女の精一杯だった。 ゼロの姿が段々小さくなっていく。 もう大丈夫だろう。 大好きな人との別れを、堪えられるわけがなかった。 一緒に国境まで行ったら、途中で泣いてしまうと思ったから。 彼には寄り添うべき人がいる、これは変わらないと思うから。 この2年間、幸せだった。 叶わぬ恋と分かってなお、幸せだった。 また会えば必ず彼は笑って会ってくれるだろうから。 再会を信じる。 他に好きな人が出来たとしても、彼はきっと“特別”なのだ。 「……馬鹿」 その言葉の矛先はゼロか、自分か。 ミュアン・リリルナの泣き声は、しばらく止むことはなかった。 「いい子だったな」 「あぁ」 本心から彼女への感謝の念は尽きない。だからこそ、彼女の想いに応えられない自分に少し嫌気があった。 それでも自分を最後まで支えてくれたのは、西で自分の帰りを待つ最愛のユフィの存在だったから、彼女の信頼と自分の気持ちは裏切れなかった。 「あの者の気持ち、私は分からないでもない……」 叶わない恋をしてきたという点で、彼女に勝るものはいないだろう。アリオーシュを想っていた年数は途方もない時間だ。 その呟きは果たしてゼロに届いたのだろうか。 彼が見つめる空は少しだけ曇っていた。 もうすぐ冬だ。風は冷たい。 寂寥の念が無いわけではない。だが、ゼロの足取りは確かだった。 2時間近く歩いたか。ようやく中央と西の国境ほどまで辿り着いた。街道、というにはお粗末だが、一応程度に整備された道にそれを示す看板が見えた。 「もうすぐ私たちの国に着くのだな」 アノンの表情には多少の疲れが見て取れたが、西に近づいているということから少し元気を取り戻したようにも見える。もう生身の身体なのだ。普通に疲労も蓄積する。 「そう簡単には帰れないみたいだけどな」 「む?」 ゼロが感じ取ったのは懐かしい気配。だが、少し違う。 森がざわめく。ただならぬ気配との混合を感じた。 「待たせたな?」 「いやいや、おめでとさん」 少しだけ懐かしく感じた。シーナとの最後の戦いの前に、ふらっといなくなっていただけだから、それほどまで長く会わなかったわけではないのだが。 彼の銀色の髪がゆっくりと風に吹かれていた。 「無事勝てたみたいやな。流石ゼロや」 「だから言っただろうが」 レイの表情はいつもと変わらない。変わらない笑顔だ。だが、アノンは何かとてつもない違和感を覚えた。そしてゼロが気を緩ませていないことにも。 「アリオーシュ!!」 その場に全く新しい声が響いた。猛烈な勢いで一頭の馬がゼロとアノンの下へとやってきた。 「お前は……」 懐かしい顔だった。以前翁を訪れた時に出会った“監視者”と呼ばれていたビーナという少女だった。息が上がっている。相当な速さで駆け付けたのだろう。 「気をつけてください! レイ・クラックスは、いえ、あの男は“独創者”ではありませ――」 「――邪魔すんなや」 ビーナの言葉が途切れたのと、レイの声が割って入ったのはほぼ同時、彼女が馬上から落ちたのはそのすぐ後だった。 レイの剣が一閃。予想外の連続にゼロは反応出来なかった。 背中から斬りつけられ、倒れた少女の周りに血溜まりが出来ていく。 「貴様?!」 アノンが駆け寄り、慣れない治癒魔法を試みようとする。だが傷が心臓に近く、深すぎた、これはもう助かる状態ではない。 「今の聞いてしもたか?」 「お前が“独創者”じゃない、って話か?」 ゼロの瞳は最早かつてのレイを見ていたものではなくなっていた。親友ではない、敵を見る目。 「そや、バレてしもたらしょうがない。俺の本名はレイ・リューベック。偽神リューゲの直系や」 「なん……だ……と?」 衝撃の名を聞き、アノンの顔色が青ざめていく。思い出してしまった記憶が爆発的に描かれる。自分を裏切り、殺した男。兄よりも信頼していたこともあった。 「自由に動くために“独創者”のフリをするのは大変だったで」 存在を欺く、それも直系の血が為せる技なのか。 「でも血の力を使いすぎた所為か知らんけど、お前に会ってから、俺の中のリューゲを抑えられへんねん」 彼の表情は普段と変わらない。ゼロはただ黙って耳を傾けていた。 「大戦でリューゲはアリオーシュに殺された。その復讐を果たせってな」 「そんな安い復讐のために、この子を殺したのか? あの時私を殺したように」 アノンの表情には、今まで見たこともないような怒りがあった。ビーナが自分と重なって見えたのだろう。理不尽で済まされる事ではない。 「そういえばそうやな。アノンを殺したんはリューゲやったな……」 リューゲの力で今まで二人を欺いてきたのだろうか。はたまた直系の血やアノンという大戦そのものに近い存在との接触によりリューゲの血が目を覚ましたのか。 「生まれたときからずっとや。夢を見る。リューゲが俺に復讐しろって言うてくるんや」 レイの剣先がゼロへ向けられる。 「お前に会えた時は自分の幸運を感謝したわ。中央に来たんはムーンが邪魔やったからやけど、まさかこっちでお前に会えるとは思ってへんかった。しっかし折角近づけたんに、誰にも邪魔されない状況を作るのにこんなに時間がかかってしまうとは思わへんかったわ。それでも今こうしてお前を殺せる状況にいる。お前を殺せば、俺の悪夢も消えるんや……!」 ゼロの眼差しに浮かぶ、悲しみの色。哀れみを持ってレイを見つめていた。 そして浮かぶ、僅かばかりの違和感。 「お前も血の因果の被害者なのか……」 彼を殺せば彼の悪夢は終わる。だがそれは何の解決にもならない。 彼を殺さずに、止めなければならない。 「アノン、離れてろ」 ゼロの刀が抜かれる。落ちかけてきた夕日に刀身が映える。 冬の風が心配そうに森をざわめかせた。 「お前の悪夢は、俺が断ち切ってやる」 二人の戦士が全力で戦っている。神々の大戦で激突したこともある2神、アリオーシュとリューゲの戦いが今再び現世でも行われているのだ。 「アリオーシュ……リューゲ……」 今好きなのはアリオーシュだ。彼の包容力が大好きだ。だが、昔ならば、彼に出会う前ならばその答えは違った。 ゼロに勝ってほしいと思う。だが、心のどこかでレイも応援している自分がいた。 「アノン様、ここは私が引き受けます。お下がりください」 暗闇の中、私たちは囲まれていた。野営を敷くことも出来ず、身を隠していたが見つかったのだ。開戦中、まだ停戦協定の前、ジャスティ兄様の配下以外は皆敵だったころだ。 私を含めて隠れていたのは4人だったが、そのうちの2人を護衛につけて彼は単身囮となると言い出したのだ。 おおよそ敵の数は3人以上いた。何といっても私はジャスティの妹だったのだ、私を捕らえれば我が国に対して優位に立てるのは明白だった。私とて一介の武人として十分な戦闘能力は有していた。だが、リューゲのそれは私を軽く凌ぐものだったから。 「死んではならぬ」 悔しそうにいつもこう言っていたのを覚えている。私が居ては、足手まといなのだ、彼が戦うために。 「心得ております。戦勝の鐘が鳴り響き、終戦の日を迎えるまで私は生涯アノン様をお守りいたしますから。ご心配召されるな」 あやつはずるかった。こんなことを真顔で言ってくるのだ。 そしていつもちゃんと帰ってくる。 「アノン様、ご無事で何よりです」 帰ってくるなり真っ先に私にこう言うのだ。危ない所にいたのはあやつの方であるのに。 悔しかったが、嬉しかった。意識したことはなかったが、リューゲはずっと一緒に居てくれるものと思って、信じていた。きっと、好きだったんだと思う。 「自分で血の因果を乗り越えようと何故しない?!」 ゼロの刀がレイの頭上へと振り下ろされる。それを正面から受け止め、鍔迫り合いの形へと持っていく。両者とも力を入れ、拮抗状態が保たれた。 「俺が本当の“独創者”やったら出来たかもしれへん! だけどお前には分からんのや! 襲ってくる悪夢が! 心ごと飲み込まれてしまうような圧力が!」 レイの迫力にゼロが押される。負の気迫に飲み込まれそうだった。 リューゲの復讐を課せられた運命。だが単純に殺されただけで、ここまで憎悪の炎が燃え上がるものなのだろうか、そんな疑問も浮かぶ。神々のほとんどが寿命を迎えて死んだわけではない、むしろ大戦で戦い死んだ者も多いだろう。闘神アリオーシュだって死神シェジャンナに殺されたという。だが、別にゼロはシェジャンナの末裔を殺せという夢など見ない。“独創者”だからかもしれないが、それとして目覚める前もそんな夢は見た記憶もない。これ程までにレイを苦しめるリューゲの思念とは一体何だというのか。 間合いを置いて敵を見据える。彼の剣は最早完全に復讐の剣と化している。それも自らの望んだわけではない復讐。いつまでも過去と決別出来ずに、血の虜囚と成り果ててしまっている。 「レイ・クラックスの意見を聞かせろ。俺の親友の声を」 「何やと?」 「少なくとも俺はずっとお前を親友と思ってこの2年を過ごしてきた。お前が悪夢に苦しんでいるのにも気付いてやれなかったことが悔しいとハッキリそう思う。リューゲの血がなかったら、お前は俺に近づかなかったか? それとも関係なく友としてあれたか?」 沈黙が流れる。 「……助けてほしい……。俺かて、ずっとお前と笑ってる方がええに決まっとる……」 その瞳に溢れた涙をゼロは信じた。 「お前の身体、ちょっと借りるぞ」 目を閉じ、一度深呼吸する。そして。 「出て来いリューゲ!!」 出来る限りの声を張って、ゼロはその想いをぶつけた。敵はレイではない、彼の中に眠るリューゲの残滓だ。 がつん、という鈍い衝撃を受けたような感じがした。意識が朦朧としていく。何だか自分が自分でないような感覚に陥っていく。 夢見心地のような視界が捉えたような気がする、黒い騎士。ずっと自分についてまわっていた黒い存在。 そいつが前に出ていく気がした。 ――リューゲ……。 レイの空気が変わった。最初にそれを感じたのはアノンだった。 懐かしさと恐怖が同時にやって来る。だが、目を背けることは出来なかった。実体ではないといえ、リューゲ本人だとするならば彼女から言ってやりたいことがあった。 「間違いない、この気配は……」 その姿はレイなのだが、雰囲気が全く違った。どこか高貴な気品を覚える。すっかり沈んでしまった夕日の代わりに月明かりが彼を照らす。自前の銀髪が映えた。 「肉体を失ってなお再び貴様と見えようとは、これは何の因果かね」 口調が全くレイと異なるが、その口調のほうがレイの姿には合っていた。昨日といい今日といい、何だかまともな戦いをしていないなとゼロは一人思った。 「すぐにお前を倒してもいい。だがその前に聞かせろ。何故貴様はアリオーシュを憎む?」 敢えてリューゲより自分が強いという前提で話を切り出す。そんなゼロがアリオーシュと重なったのか、アノンがそっとゼロの袖をつかんだ。 「私がお前に倒される? 戦ってみなければわかるまい!」 リューゲの視線には、ゼロしか入っていないようだった。ただならぬ気配を感じ、ゼロはアノンを避難させた。 その斬撃はレイのものよりも鋭かった。アノンの記憶にリューゲの姿が克明に蘇る。 彼の振りかざした剣。彼女を守った鎧。時折見せる微笑み。 だが、彼の視線が全くアノンに向くことが先ほどからない。 ――私に気づかないのか、リューゲ……。 幾ばくかのさみしさが、アノンの胸に去来した。 |